歴史四方山話 |
| 信玄と要害山 |
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「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」 甲陽軍鑑に書かれている武田信玄の有名な言葉と伝わるが、どうも後世の創作らしい。 武田信玄は居館である「躑躅ヶ崎館」を本拠とし、「人の力こそ堅固な城にも勝る」と、甲府に堅固な城郭を築く事はなかったと美談的に言われている。 確かに信玄自身は甲府に城を築く事はなかったが、実は「躑躅ヶ崎館」の背後の山に「要害山城」という備えの山城を持っていた。 「要害山城」は信玄の父・武田信虎が居館を川田館から躑躅ヶ崎館へ移した際に、家臣・駒井政武の領地であった積翠寺郷の丸山を取り立て、砦や狼煙台を築いて詰城として整備したもので、他の戦国大名同様、平時の居館と有事の際の詰城を備えていた。 事実、今川氏親の命を受けた福島正成が甲斐へ侵攻してきた時、信虎は正室の大井夫人を要害山城に避難させており、大井夫人はその城中で嫡男となる武田晴信(信玄)を出産したという。 この後、「要害山城」が歴史上の記録に登場するのは信玄の跡を継いだ勝頼の時代で、長篠・設楽原の合戦で大敗後、織田・徳川軍が武田家への攻勢を強めた頃に「要害山城」の普請への召し出しを命じた勝頼の朱印状が残っている。 既に備え持っていた詰城「要害山城」すら使う事のなかった信玄が、新たに甲府に城を築かなかったのは当然の事であり、信玄自身が戦に優れ、敵対勢力の領地に侵攻する事が殆どであった事、甲府は四方を山に囲まれた天然の要害の地で他国も簡単には侵略する事が出来なかった事などを考えれば、甲府に「堅固な城を築かなかった」のではなく「築く必要が無かった」のだと推察される。 |
| 謎多き長命の宰相 |
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「人間五十年」そう言われた時代に107歳まで生きたとされる人物がいる。 男性の平均寿命が81.09歳の現代に置き換えると、なんと173歳まで生きた事になる。 これはあくまでも単純計算したうえでの数字だが、それにしても恐れ入る数字だ。 この人物、名前は南光坊天海と言う天台宗の僧で、江戸に幕府を興した徳川家康の側近として助言をする立場にあり、幕府の朝廷政策・宗教政策・江戸の都市計画に深く関わった人物だ。 関ケ原の合戦で勝利を収めた家康が幕府を江戸に開いたのは、古代中国の陰陽五行説にある「四神相応」を基にした天海の助言があったからだとも言われている。 天海は用心深い家康に信頼され重用された人物なのにも関わらず、その生い立ちや前半生は謎が多く、いまひとつはっきりしていない。 同じく家康の側近として重用され、「黒衣の宰相」と言われていた臨済宗の僧・以心崇伝は、生立ちからその生涯に至るまで、様々な事が明確に伝えられているが、天海はその出自すらも不明なままである。 天海は本能寺の変後、山崎の合戦で羽柴秀吉(豊臣)に敗れた明智光秀と同一人物で、徳川家康の下で豊臣家を滅ぼし恨みを晴らしたと言うような異説まで唱えられている。 果たして天海は何者で、どういう経緯で家康に仕える事となったのか、その謎が解明される日が待たれる。 |
| 龍虎対決、川中島の戦い |
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「川中島の戦い」と言えば、歴史にあまり興味がない人でも知っている有名な合戦だ。 戦国最強の武将と名高い越後の龍・上杉謙信と、風林火山の軍旗で有名な甲斐の虎・武田信玄が北信濃の支配権を巡って勃発した争いが「川中島の戦い」だ。 「川中島の戦い」とは、天文22年(1553年)更科八幡の戦い(布施の戦いとも言う)、天文24年(1555年)犀川の戦い、弘治3年(1557年)上野原の戦い、永禄4年(1561年)八幡原の戦い、永禄7年(1564年)塩崎の対陣の12年間で五度に及んだ両者の争いの総称である。 実際に「川中島」で行われた戦いは「犀川の戦い」と「八幡原の戦い」だけで、両軍の戦闘が一番激しかった八幡原の戦いが川中島で行われた事から、北信濃での両者の争いを総称して「川中島の戦い」と言われるようになった。 謙信と信玄の初対決となった更科八幡の戦いは小競り合いのみで終結、双方とも一定の戦果を得た。 犀川の戦いでは、謙信が攻撃を仕掛けるも決着がつかず、犀川を挟んで200日にも及ぶ対陣となったため膠着状態に陥ると、駿河の今川義元の仲介で和睦が成立し、双方とも撤退した。 上野原の戦いでは北信濃地域の城を巡っての攻防が続いたが信玄が決戦を避けたため、またしても明確な勝敗はつかなかった。 八幡原の戦いでは両軍が初めて大規模な戦闘となり、双方併せて7000余の戦死者が出た。 妻女山に陣を敷く謙信に対し、別動隊をもって奇襲をかけて、山から下ってくる上杉軍を八幡原に展開する信玄本隊が殲滅するという武田軍師・山本勘助が献策した有名な「啄木鳥戦法」が用いられた合戦であったが、この策を謙信は見破り、闇夜に紛れて妻女山を下り千曲川を渡ると信玄の眼前に布陣した。 完全に裏を掛かれた武田軍は動揺し、合戦が始まると劣勢となったが、妻女山から急行してきた別動隊が八幡原に到着すると、上杉軍を挟撃する形となり形勢は逆転、上杉軍は撤退し戦は終結した。 この戦いでは武田本陣に単騎で斬り込みをかけた謙信の太刀を信玄が軍配で受け止めたという逸話が残されており、ドラマや軍記物の小説などでは必ずと言ってよいほど、この一騎打ちの場面が描かれている。 この戦いで北信濃の制圧には成功した信玄であったが、実弟・信繁、軍師・山本勘助、譜代家臣・室住虎光など、家中屈指の重臣が多数討ち取られた。 一方、川中島から兵を引いて越後に戻った上杉軍は、主だった家臣に討ち取られた者はいなかったとされている。 四度目の川中島の戦いに於いても明確な勝敗はつけがたく、両者の決着は次戦に持ち越される事となった。 五度目となる塩崎の対陣では川中島に進軍してきた上杉軍との衝突を避けた信玄が、千曲川の西岸にある塩崎城に布陣して両軍が対峙した。 2ヶ月に渡り睨み合いが続いたが両軍は撤退し、以後、両軍が直接対決する事はなく、決着はつかないまま川中島の戦いは幕を閉じた。 |